補註

 

 

この冊子に納める伝説は「姫郷地名鑑徳川三代目言上控」(口絵写真の「姫郷地名鑑」を現代文にしたものである。

 

 

  今回、書きなおすにあたっては、原文にそいながらも、思いきって今の言葉になおしてみた。原文の意をそこなわないようにつとめたが、筆者の語彙不足からうまくいっていない所があるかと思う。ご叱正を乞いたい。(なお原文は写真にして全ておさめた)

 

 

  この「言上控」は姫小川町浅間神社に保管されていたもので、美濃版袋綴じの十五帖からなる。全く同じ文を赤い罫紙に毛筆楷書で写しとった綴りが一緒に保管されているが、これと比較すると原文第十二帖の次に四枚くらいが、失われていることがわかる。今回の作製には、失われた部分を含めて書いた。

 

 

  「言上控」なるものの性格はつかみにくいが、末尾の記述をそのまま読みとると、「この度お調べがあったので、村と姫宮様のことを一句言ももらさず述べたものである」と記し、姫郷小川村民長月番の長門善太以下五名が、白鳳十妄十盲に書いて、徳川三代目将軍に指し出したという形をとっているD白鳳十妄は六八〇年頃で、伝説に述べられる時代にあたる。

 

 

裏表紙に八十四才の野村幸助が写したとしているが、これはうたがう余地のないことである。幸助は、浅間神社境内の薬師堂の瓦に同じ名がでてくる。このお堂は天保十年(一八四〇)の建立である。そのころ筆写したものということになる。

 

  姫小川の地名の由来については、「姫小川村地誌」(一八八八年明治二一年成立)に誓願寺住職・小松法翠一八八七年に書いたものが納められている。登場人物は姫宮様が歌千代姫であるなど多少ちがいがあるが、あら筋は同じである。

 

 

  本文にでてくることがらのうちには、今日知られている史実に合真部分がいくつかある。やはり、史実をつづったものではなく伝説なのである。しかし伝説に出てくる塚は、今も古墳として残っている。お姫様の塚と伝えられる姫塚古墳は古墳時代後期のもので伝説の時代と全く同じ白鳳時代に造られたものである。

 

  姫塚古墳の上には「姫宮墓」と刻んだ古い石塔がある。宝筺印塔の断片だから古くみても中世(約七百~四百年前)のものだが、いつの時代かにそのような文字を彫りこんでいるのである。これには「白鳳十年」とも書かれている。

 

  伝説にでてくる姓名のうち、小川が断絶したことは伝説にものべえられているが、ほかの小松、野村、都築、河合は今もつづいており今、知られている姫小川の古い家は、ほとんど全てこれに含まれている。伝説にでてくる畿内の地名をたどってみると、話が符合するようである。この点について、野村力さんがたしかめつつある。この地方の家々の家紋が、畿内地方の人々のものと一致することをつきとめた方もある。

 

 

 それらのことが、史実とどう結びつくのか、興味のあるところである。しかし、今のところそれを突きとめることは、かなりむつかしそうである。そのようをことがらは別として、このようを長くてくわしい伝説があること自体、興味がある。いつの時にか、村の地名の起源について考えた人々があって、これをこのようを話にまとめ、伝えを定着させようとしたわけである。

 

 

 

(1)孝徳天皇は大化改新において、皇極天皇が廃されたとき、中大兄皇子らに立てられた天皇である。在位は六四五年~六五四年である。日本書紀は第三十六代の天皇としている。改新の年、五十二才前後と推定される。

 

 

(2)旧碧海郡の土地は、干地=洪積台地と福地=沖積低地の二段の広い平地からなりたっている。現在の姫小川の集落は、大部分台地の上にある。碧海郡の低地が全て海だったとする考えは古くからあって、この伝説もその考えをとっている。しかし、小川町加美橋の北、百メートル付近の低地には、すでに千七百年前(弥生時代後期)にはムラがあった。

 

 

(3)土呂は今の岡崎市福岡付近。

 

 

(4)壬生村については、「あとがき」参照。

 

 

(5)本道とは、漢法医のいい方で今の内科のことをいう。

 

 

(6)原文には天朝様の御簾中様とある。簾中様は貴族の正妻のことである。「日本書紀」には孝徳天皇(軽皇子)の皇后は欽明天皇の娘の間人皇女、二の妃は阿倍倉梯麻呂大臣の娘である小足媛、次の妃は蘇我山田石川麻呂大臣の娘である乳娘である。

 

 

(7)原文は「御不行跡」とあり、村では不純な男女交際のことだろうと推定している。なお、小松筆の本では「中大兄ノ謀反二党スルノ疑ヒ」としている。

 

 

(8)原文は「かつき」と仮名で書く。平安時代以後の女性が、外出するとき、人目をさけるために、頭からかぶったひとえの衣服のことである。

 

 

(9)孝徳天皇元年(六四五年) 十二月、都を飛鳥の地から、難波長柄豊崎宮に移している。豊崎宮は長年所在が不明だったが、大阪市東区法円坂の発掘で発見された。

 

 

10)蜜柑(みかん)とする書もある。原本とともに発見された赤罫の写本もそうだが、一八九〇年 (明治二三年)一月に筆写したことが明記されている都築光雄氏所蔵の写本も蜜柑としている。

 

 

11)原文は「此人ラ密談ヲ以頼ミ御裏方江御内奏二依テ御簾中様御情ヲ持セラ連」とある。

 

 

12)「介」とは、本来は国府の役人の次官級の役人を意味する。これに対して松平和泉守信光をどの「守」が長官である。

 

 

 

13)お姫さまの御殿があったのは、今の東町獅子塚のうちの南西の端で、姫小川町誓願寺に近い地点と伝えられている。

 

 

14)蓮花寺は今の桜井小学校の南、姫小川町堂開通付近にあったと、いい伝えている。

 

15)「日本書紀」は五五二年のこととして記している。

 

 

16)米津竜謙寺蔵方便法身尊像の裏書に「……志貴庄比目郷野寺本証寺門徒、同庄米津郷道場」(延徳三年一四九一)、また、姫小川誓願寺歳方便法身尊像の裏書には「……志貴庄比□郷」(明応年間一四九一~一五〇〇年)とある。(比の下の消えて読めない文字は「目」であろう)。「姫郷」と「此目郷」は同じである。中世にはたしかに「姫郷」の名があったのであり、あるいは、今の野寺のあたりまで含んでいたのであろうか。なお、「倭名抄」(九三〇年成立の百科辞典)は費海郡の郷として、小河、桜井、智立、妥女、刑部、依網、鷲取、谷部、大市、碧海、樻礼、呰見、河内、大岡、薢野の十三郷を記している。

 

 

17)東町に獅子塚という古墳が現存する。今は墳項に秋葉神社が祭られている。もとは前方後円墳だったと知られている。

 

 

18)姫小川には、旧村社浅間神社がある。祭神は木花開耶姫命である。

 

村の伝えでは、昔は海に近かったので、豊玉姫命を祭っていたが村で難産がつづいたので、甲嬰国の浅間神社からこの神をいただいて来た。それ以来、難産のために死ぬ者はなくなったという。そのため今でも、産婦のお参りがある。浅間神社の本社は富士宮市にある。豊玉姫は海の女神である。産屋の屋根の葺きおわらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているところを、夫の彦火火出見命出見命にのぞき見られたので、恥じて、海中へ行ってしまったと伝えられている。なお、今の本殿は姫小川古墳という前方後円墳の境項にある。

 

 この古墳は全長66㍍あり、国の史跡に指定されている。

 

 

19)今、姫塚古墳という綾姫さまを葬ったと伝えられる円墳が、姫小川古墳の北にあるが、このあたりから新しい公園にかけては、今も「大塚」と称されている。「大塚」と「皇壌」は文字はちがうが同じと考えてよい。姫塚古墳の境項には、いつの時代にできたかわからないが、古石塔があって、中央に「姫宮墓」左右に「白鳳十辛巳年」「六月廿四日」と刻まれている(口絵写真)。なお白鳳十年が西歴の何年になるかは諸説あって、きめにくいが、そのころの「辛巳(かのとみ)年」は六八一年天武天皇九年にあたる。

 

 

 

姫小川の由来

 

 

昭和五十年九月二十日 発行

 

発行人/ 野 村  力

 

 

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