姫郷地名鑑

 

 

姫郷地名鑑

 

 三十七代孝徳天皇①(千三百年前)の御代のことでした。このあたりは海のほとり②でおよそ一里四方の土地は「萱口」といっていました。東は三里余り上手まで潮がさし、波のただよう入海でした。またこの萱口港は国府のある宝飯の港まで海伝いに行けました。東の方の土呂③の里までは二里ばかりです。ある時、用のある者が土呂から舟を仕立てて、竿と帆を使い渡って来ました。船頭は陸に上って用をたしている間に、日暮となりました。しかたなくその夜は萱口に泊まりました。

 

 翌朝、土呂まで帰ろうとした船頭は、浜へ出てみると、みたこともない粗末な舟が、波打ちぎわに流れ者いていました。船頭は怪しく思って、舟の中をのぞいて見ると、病人かと思うほどの女の人が二人いて、苦しそうな声で助けをよんでいました。こわくなった船頭は逃げ帰って、村長の小川伝太郎のところへかけつけました。伝太郎はとるものもとりあえず、艦本平馬・鵜飼権平・早川六松の三人をつれて浜辺へ出て見ると、船頭がいう通りでした。みすぼらしい舟の中には、疲れ衰えた女が二人いました。一人は麻の着物を着てはいますが、中啓とよばれる扇をもっているので、とても平人とは思えませんでした。

 

 伝太郎は尋ねました。そこもと様はどこの国のお方ですかと。下女が答えました。このお姫さまはご流浪のお身の上です。あからさまには名乗れませんが、お情があったら、どうぞ陸地へ上げてください。と手を合わせてたのみました。気の毒に思った伝太郎は、それでは舟からおおりください、と申しました。下女はお礼を述べましたが、なにしろ疲れに疲れています。立つこともできませんでした。伝太郎はかたわらに居あわせた権平と六松に申しつけ、お二人方を抱きかかえるようにして土手の上へおつれしました。高くて平な所をさがして、わらをしいて、その上にやすませ、熱いお茶やおかゆをおすすめして介抱申し上げました。

 

お姫さまはたいへんお喜びになって、下女の方は村の人人に、お情深いお方様にめぐり合い、不思議に命が助かりました。こんなにうれしいことはありません。今後、この御慈悲は命の親様と思います、とお礼を伸し述べました。またつづけて下女の方は申しました。

 

 

 

 

このお姫様は、恐れ多くも神国人皇三十七代の御帝の御所にお生まれになられた綾姫様でございます。そして、私は河内国壬生村④の小松金伯と申す本道家⑤の医師の一女として生まれました。名をいしと申す女でございます。世継ぎの男子がなく、聟養子をむかえ家を継がせようとしたところ、男の子が生まれました。名を金治とつけましたが、金治が二才の春、夫はふとした痛から亡くなりました。

そうこうしている間に、皇后様⑥が、お子をお生みになることとなり、乳母として私をお召しくださいました。私は、二才の金治を祖父母に預けて御所へ参りました。そうしてお生まれになったのが綾姫様でございます。御誕生のとき、私は乳母石の局という官名をいただき、お姫さまをお守りすることになりました。

綾姫様はお乳もたくさん召しあがられ、たいそうごきげんよく、ご成長あそばされました。たいへん才智にたけたお方で、何から何まですぐれておられ、その上ご容貌もおきれいにお育ちあそばされました。

 

 その後、またたく間に月日がすぎ、御年十五才におなりになったころ、若気の至りと申しましょうか、よろしくない行ない⑦のことで、御所においでになることができなくなりました。 皇女としてのご身分を退かれ、綾や羅・錦といったきらびやかな衣服はお脱ぎになって、麻の衣をまとわれ、麻の被衣⑧をかぶられることになりました。そして闇夜のある晩、摂津国豊崎の都⑨をお立ちになりました。

 紀伊国の海岸までお見送りがありましたが、お供の者がわずか三人というさびしいものでした。そこで浜辺に用意されたみすぼらしい舟にお乗りになりました。都とのお別れの標には、お菓子の壷一つと、蜂蜜⑩の壷一壷とが乗せられました。

 

 これがこの世のいとまごいかと思われるほどさびしいものでした。私にもお側に附添う者としてお咎めがあり、同じ舟に乗せられました。お供の者たちとは涙ながらにお別れしました。

 

 

 

 お姫さまの小舟は大きな舟に綱をひかれて波の荒い沖合いまで引出されました。そこで綱は捨てられ引き舟は逃げ帰ってしまいました。 何とこわいこと、恐ろしいこと、舟はいつしずむともしれないほどゆれにゆれ、波の逆巻く音は、肝を貫くほどでした。恐ろしやこわやと思いつづけているうちに、ここの浜、あそこの岸へとたどりつくこともありました。けれども陸地へあげてくれる所はなく、岸につくと、役人たちが迷惑がって沖へもどしてしまうほどでした。恐ろしさはなんともいいようのないものでした。

 

 いっそ身を投げて、鮫の餌食になりましょうと思うことも何度かありました。けれども私が死んでは、後にお残りのお姫さまのお身の上はどうなることかと案じたり、うろたえるばかりでした。思えば、そんなことを考えることだけでももったいないことです。胸の中でおわび申し上げて、心を金石のようにかたくし、たとえ骨はくだけても、お姫さまの将来のお見通しがたつまでお見とどけしようと、心の底から魂をいれかえる決心をしました。そうしているうちに、不思議に命はながらえて、しあわせをことにこの里に着きました。

 

 皆様方のご親切をお情は、子孫にも忘れないように伝えましょう。このように物語る乳母の言葉を聞いて、そこにいあわせた人々は、皆涙を流しました。語り終った局はほっとしたのか、ここはどこの国、どこの里とお尋ねになりました。伝太郎が答えて、西三河州萱口の里と申す港です。この国では宝飯の郡に天朝様の府があって、宝飯の国府と申します。私はこの萱口を支配する小川伝太郎と申す者です。ここには二十五屋敷とその外に水呑の者がおよそ二百軒あります。この者たちは脇本平馬・鵜飼権平・早川六松・鹿嶋太郎七、またこの者は垣口玄雄という神職の者です。と説明しました。

 

 

 

 乳母はこの上は万事よろしくおたのみしますと申しました。村の人々はすぐさま集まって、丸太を集めて、茅や藁で雨露をさけるようにし、四方をかこんで仮の御殿をこしらえました。仮御殿はその日のうちにでき、すぐにお姫さまをお移しして、ごちそうをこしらえてさしあげました。乳母は重ね重ねお礼を申し述べました。村の人々は二、三人づつ昼夜警護につくことになりました。

 

 お姫さまは、故郷の都のことを思い出されながらも、この里に住むことは気が楽で、楽しいと人々にお礼を申されました。乳母もお姫さまのご気げんがよろしいので、たいへんよろこんでいました。

 

 お姫さまがこの国へお着きになったことを、天朝様へお知らせ申しました。ところが何日たってもいっこうにお沙汰がなく、村では、いくらご勘当のお身の上とは申せなにかお知らせがあるだろうにと心配していました。

 

 乳母は都でのしきたりを思い出し、知人をたよってお伝えすることにしました。乳母が御所にいたころから親しくしてもらっていた、森本刑部というお裏方役は、以前から情のある人でした。この方へお頼みして、お裏方から天朝様に申しあげてもらいました。すると皇后様のお情け⑪により、その日のうちに矢部丹下という方がお使いとして、都を立つことになりました。

 

 お姫さまご扶助のお手当と、四人の警護をする下僕の者がきまりました。長門数馬・都築大和・野村出羽・河合大隅介⑫の四人で、この村へ着くとすぐに、よい土地を選んで⑬、五十間四方に土手をめぐらせ、よい材料で立派な御殿を造りました。そして吉日を選んで新御殿へお姫さまをお移ししました。

 

 お姫さまご誕生の暗からのお守本尊として、聖観音菩薩像がありました。

 

 

 

大海の舟の中ではいくつかの難関がありましたが、これをまぬがれてこられたのは、このお像のおかげにちがいなく、霊現あらたかなお像でした。そこで、この村にある蓮花寺⑭にお祭りすることになりました。今の住職・浄賢和尚もご供養をつづけているといっています。この蓮花寺のことは次のように伝えています。

 

 

都の蘇我稲目は向原の邸宅に向原寺を建てました⑮。日本最古の寺院といわれています。後の橘寺です。向原の一族の方で出家して、正順と名のる方がありました。この方は諸国行脚を思いたち、あちらこちらの国を歩いておられ、ついにこの村へおいでになりました。この地でしばらくお休みになり、草原に寝起きして、民家を托鉢して巡っておられました。

 

一日中歩いては日暮になると草原にもどり、革をかぶって寝ておられました。寝ても起きてもただお経を請えておられるばかりでしたので、あたりの人々は同情して、その草原では霜も雪もふせぐことはできません。どうか私の家に来て暖をおとりくださいとおすすめしました。

 

  ところが僧は、あなたのお気持ちはまことにありがたいのですが、私は世捨人ですから、この世は仮りの宿、この草原を極楽世界の蓮花台と思えば、雨露も少しもいとわしくありません。あなた方の御親切にはお礼申し述べます、といいました。近所の人々は竹や木で庵をこしらえてあげました。庵の名は正順さんが蓮花台といっておられた土地なので、蓮花寺とつけました。

 

  この時から何代もたって、今は浄賢という住職がおられるわけです。乳母の方の実子である小松金治という方は、母を尋ねてこの村へ来られ親子が無事であったことを喜びあい、ここに住むことになりました。

 

 その後、お姫さまの御母君がお亡くなりになり、お姫さまはたいへん悲しまれました。十日の忌に服した後、法号が葺蘭院様ときまりました。

 

 

 

  こうなると、御法号の文字を村の名に使っているわけにはいかなくなり、萱口里といっていたこの土地は、名をかえることになりました。

 

  そして、お姫さまがお住まいになったことと、小川伝太郎がこの土地を開いたということを、後世に伝えたいという考えで、「姫郷小川村⑯」と名をかえることになりました。

 

  そうしているうちに、年月の過ぎるのは早いもので、お姫さまがこの国へお着きになってから十九年の歳月がたちました。その年四月、七十一才の乳母が亡くなりました。四月十八日に蓮花寺で葬儀をし、お骨は獅子塚⑰に埋めました。この獅子塚については次のような伝えがあります。

 

 ある時難病がおこり、村人たちはたいへんこまったことがありました。この時、神主の垣崎龍威という方が神にうかがいをたてたところ、里の鬼門の方格(東北の角)に獅子の形に似た塚を築いて悪魔を追いはらえば病気はなおるにちがいない、とのことでした。村中の人々は集って数日間のうちに獅子の形に似た塚を造りました。神主の龍威は一日中、護摩をたきたんねんに祈祷し、村中の病気はやがておさまりました。そのときから獅子塚といっていました。乳母のいしを埋葬してからは、石塚ともいうようになりました。

 

  お姫さまと乳母の子、金治とはともに力をおとし、この時から金治は父母の菩提のために仏像をお祭りして、朝夕経を読むようになりました。お姫さまはたびたび蓮花寺の観音さまへお参りされるようになりましたが、あるとき小松の生えた中から白い兎がとびだし、まるでお参りをご案内するかのように、お姫さまの前を走るのでした。このことが何度もつづいたので、人々の評判にのぼり、乳母の亡霊が白い兎になって、お姫さまのお供をするのだろうといわれるようになりました。めずらしいことなので記しておきます。

 

 

 

  それから何年もたって、春のおわりころからお姫さまのおかげんがすこし悪くなり、食もすすまなくなりました。医師も治療にあたりましたが、ご病気はしだいに重くなるばかりでした。この回へお着きになって三十六年、お年塘五十二才におなりでした。その年の六月二十四日、とうとうお隠れになりました。

 

  警護の者四人は申すに及ばず、皆力を落し悲しみました。御法号は蓮花寺の宮ととなえられることになり、蓮花寺で御葬礼がなされました。ご遺体は豊玉姫神社⑱の森にお納めし、御陵を築き、皇塚の森⑲ということにしました。そして御所においでのころは十二単衣を着ておられたのにちなんで、塚のまわりに十二段の階段をこしらえました。

 

  また、お供の四名の者は、主人を失い力を落していたところ、ご扶助のお手当はさしとめられるなど、戸惑うばかりでした。それでも、家屋敷はそのまま残されることになったのは幸なことでした。そこで四名の者は自ら官を辞退し、名も一般人のように改めました。長門善太・野村長九郎・同人弟四郎治・都築平十・河合藤太などで、みを家業の農業に精をだして日を送ることになりました。

 

 

 その後間もなく、小川伝太郎も亡くなりました。世継がないので、村人の悲しみは一層でした。由緒のある家名も失われることになったのは残念でした。しかし、国府からお達しがあり、もとお姫さまの警護にあたっていた四名の者が日番交替で村長を勤めることになりました。配下には二十五戸と水呑多数がありました。これらの者を農業にはげませ、国府へ租税を納めるのが役目でした。

(完)

 

ナンバー①~⑲は「補註」をご覧ください